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kazuNETの追憶 https://twitter.com/kazu51311101

中央大学に通う大学生のブログです。(笑)気楽にアクセスしてくださいね。

人間の役割

人はみんな何らかの役を演じて生きているのですね。

例えば、

子供の頃は「こども」の役を演じて生きている。

部活であれば先輩と後輩の役を演じる。

会社であれば上司と部下の役を演じる。

そうやって社会に出るとみんな何らかの役割を担うわけですが、人間というのは

「他者が違えば役割も変わる」のですね。

部活であれば先輩は後輩に対して上から目線で話したりするのですが、その先輩は先生に対しては律儀だったりと人間は人によってキャラを変えることができるわけです。

要するに、人は社会で与えられた役割を演じるために「仮面」被って生活をしているのですね。

それは男性においても女性においても変わらないんですよね。

男性も女性も本質の部分は変わらないので…

例えば、女性が男性に対して媚を売っていたとしてもそれは別にその女性だけがやってるわけじゃなくて批判する人もみんなやっているわけで…

自分を客観視できてないんじゃないですかね?

 

人間の役割…

 

 

 

 

 

個性と社会のルール

人間には個性というものがある。

個性とは自分自身が大切にしているかけがえのないもの。

しかし、その個性によって他人を傷つけてしまうことがある。

例えば、「交通ルール」

「自分の個性は車のスピードを出すことだ!」と言ってもスピード運転をしてしまったら他人に迷惑がかかる。

つまり、個性を出していい場合と個性を出してはいけない場合がある。

「個性と社会のルール」ボーダーを明確にしなければ個性は出せない。

ではもう一つ例を出そう!

もう一つの例は「学校制服」

中学生、高校生は学校では制服を着なければいけない。

これは校則で定められている。

そうした場合、私服で学校に行くことはできない…私服を着たとしても他の人間の迷惑にはならない。

でも、制服を着ないと先生から怒られてしまう。

この場合どうするか?

この場合、現行法に従わなくてはいけないため制服を着るべきだが、私は制服を着るのか私服でもいいのか?という議論の場を設けて生徒の支持が過半数を超えた場合は私服を着てもいいと思うのです。

そうなった場合、「伝統ある制服」を廃止することに対して反対意見が出ることが予想されるのですが…学校は生徒のためにあるものであり、生徒がそう選択したのならいいのではないかと思うのです。

民主主義的にも筋が通っています。

そうやって社会のルールを変えるのであればルールを変える場所を定めて議論をしていくことが大切なのではないでしょうか?

個性と社会のルールがぶつかった場合は他者の支持が必要になるでしょう…

 

個性と社会のルール…

Who will know …

誰が知っているんだろう?

誰があなたのことなんか知っているんだろう?

誰も知らない… 

誰もわからない…

親があなたことを知っている?

友達があなたのことなんか知っている?

「本物のあなた」のことなんてみんな知らない…

あなたも「本物の自分」なんてわからない…

誰も知らない…

あなたもわからない…

みんな求めることばかりに夢中で…理解できない…

 

Who will know …

 

 

 

人間フィルター

人間は他人を見る時、属性によって分類する。

例えば、

明るい

頭がいい

人懐っこい

などなど…

人間が他人を評価するのなんてそんなものだ。

しかし、人間を属性別に分けることなんてそもそもできない。

例えば、明るい人間がいたとしてその人は「明るく」他人に対して振舞っているのかもしれない。でも、それはその人の本質じゃない。ただ単に明るく演じているだけ…

自分は明るい人間なんだと…そう自分を自己洗脳して他人に配慮しているだけなのだ。

明るいと言われている人も暗くなる時はある。

頭がいいと言われている人は頭がいいと思われるように演じてしまう。

人懐っこい人は八方美人になる。

それなのに世間はその人の性格として属性別にカテゴライズしてしまう。

人間には様々な表情がある。そんな当たり前のことを理解しているつもりで、理解できていない。いや…カテゴライズしてしまい理解しようとしていない。

みんなが共通認識として「人間はそんなもんだ…」と理解していればもっと寛容な社会になるのかなぁ~と…

 

人間フィルター…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲愴

私がこの世界で死んだら…

誰が私のことを知るのだろう?

私がこの世界から消えた時…

誰も私のことを知らず…何も残らない…

世界は私のことを承認せず回り続けるだろう…

希望なんてなく…絶望しかない…

私の目に映る現実はそんなもの…

見えるものはただそれだけ…

 

悲愴…

 

 

 

死んだ後の夢…

私は夢の中で死んだ。

死んだ場所は、海なのか湖なのか…よくわからない水の中…

私の体は時間をかけてゆっくり沈んでいき…深海に到達したと推測される。

私は死んだ…だけど意識はあるのだ…つまり、魂は死んだ場所にある。

人間は死んだ後、「あの世」に行くのではないかと推測していたが、夢の中では「この世」に魂が残っていた。

私の魂は常に深海から太陽の光が差し込んだ壮観な風景を見ていた。

何日も何日もその視点は変わらない…

そして、自分の「肉体」が徐々に「土」に帰る様子を感覚的に理解できる。

しかし、肉体が土に帰っても自分の意識は常に水の中…あの世に行く現象なんて全く起こらない。

私は悟った。「あの世」なんてないことに…

私達人類は墓を作って「供養」をするという行為をするわけだが…

人間の「魂」は本質的に「あの世」には逝かず「この世」残る。そして墓をいくら作っても魂が墓になければ意味がないんじゃないかと思う。

つまり「墓」は今生きている人達の信仰心の問題であり、本質は死んだ人間の場所に行って「供養」しなければいけないんじゃないかと考える。

 

死んだ後の夢…

 

 

 

 

 

 

普通の人生は楽?

みんなが思っている「普通の人生」を実践できる人はそれでいいと思う。

大事なのは「普通の人生」に対して違和感があるか…それともないか…

違和感がないのであれば「普通」と呼ばれていることをした方が幸せになれるんじゃないかなぁ~と…

でも、…世の中には「普通」に対して違和感を持っている人もいるわけで…

そんな人達にとっては本当に生きづらい世の中だなぁ~と思う。

もしこの国の人々が「普通」を目指しているのであれば、なおさら違和感を持っている人達は生きづらいだろう。

そして大人達は嘘をついたりする。

例えば、「個性を大事にしよう!」という割に就活では「髪を短くしろ!」とか「スーツはリクルートスーツにしろ!」とか何かと制約が多い。

「多様性」を大切にするということと「世間においてのイメージ」を大切にするということに対して私は矛盾を感じる…

まぁ…それが「大人になる」ということなんだろうけど…それは「普通に生きられない人間の犠牲」があって成り立っていることを忘れてはいけないと思う。

 

普通の人生は楽?