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中央大学を卒業してなんとなぁ~く生きている人間のブログです。(笑)気楽にアクセスしてくださいね。

人と会うのが怖い SAD(社会不安障害)

人と会うのが怖い。

先月私はSAD(社会不安障害)と診断された。

そもそも私はSADという言葉じたいを知らなかったのでピンとこなかった。

SADとは人と会うのを拒絶してしまい鬱などの二症状がでてしまうらしい。

自分にこんな障害があったなんて…と一瞬思ったが、過去を振り返ると人と会うのを拒絶していたことはたくさんあった。

学生時代、「先生におとなしい」と言われるぐらい他の人とはできるだけ避けるようにしていた。なぜなら、私は人がそんなに好きではなかったからだ。

人間生きていると、噂話の一つや二つはあるものだ。

だけど私はそんな噂話をして他の人の悪口を言ったりする罪悪感に耐えられなかった。

学校では暗黒のヒエラルギーがあるのだろう。

そんな階層に組み込まれることに対しても気持ち悪さを感じていたし、できるだけ関わりたくなかった。

その結果「先生からは無口でおとなしい性格」と評価されていたと思う。

だけど、学生時代は人とそこまで関わることを強要されなかったためSADの症状はあまりでなかった。

自分自身SADの症状があると認識したのが、社会人になってからだ。

社会人になると学生時代は別に嫌な人とは関わらなくていいのに会社では利害関係が出てくるので関係性が深くなってくる。

私はそれがとても息苦しかった。

社会で出ている以上は色んな人間と関わらなければいけないし、理不尽な要求もされることもある。

そんな環境で毎日生きていると自分と向き合うのも辛くなっていき、不安障害を引き起こした。

毎朝仕事に行こうと思っていても体が動かない。

せっかくの休みなのに友達と遊びに行こうと思っても体が動かない。

「なんで自分はこんなに駄目な人間なんだろうと思ってしまう。」

体が動かないからごはんや掃除、身の周りのこともできなくなってしまって段々やせ細っていった。

この時、自分の状況を客観的に振り返ると、体は動かないし頭で何も考えることができないから本当に何もできなかった。

何もできない時、何かができるということはとても幸せなことだと思ったし、はやく回復したいと心の中で願望が芽生えた。

現在は薬飲みながらリハビリをしている。

その薬の副作用でめまいや吐き気はするのだが、人との対人恐怖症が治るのであればあまり苦には感じてはいない自分がいる。

今は目標を決めて向き合っている。

①少しずつでいいからまずは日常生活を元通りに戻す。

②人と会話ができるように頑張る。

③自分から積極的に話しかける。

上記を目標にこれから歩んでいきたい。

 

 

 

 

あ~自分はダメ人間なんだなぁ~ 発達障害と社会

今まで生きてきて自分が障害だという認識はなかった。

確かに、学生時代、人と違うという意識はあった。

障害だとは思ってはいなかったが、他の人ができることが自分にはできない。それがコンプレックスだったことは間違いない。

「あ~自分はダメな人間なんだなぁ~」と思っていた。

私は医師からADHD(注意欠陥・多動性障害)、SAD(社会不安障害)と診断された。

私のADHDの特性は

(1)計画的に物事をすすめることが苦手

例:掃除をしている時、どこから始めていいかわからない。

(2)集中力が長く続かない又は集中しすぎる

例:集中力が長く続かずぼーーとしてしまい学校や会社の人間からは怠惰な人間だと  思われていただろう。

また、集中できる時は寝食を忘れるほど物事に没頭できる。

(3)よく遅刻をする(時間の概念がない)

例:時間の概念がないから何時に何をするかを決めたり、実行するのが苦手で、大学           時代よく遅刻をして教室に入っていた。

(4)人とのコミュニケーションが苦手

例:対人関係が苦手で会話中余計なことを言ったり、行間が読めずに指示通りに作業ができなかったり、散々な目にあった記憶がよみがえる。(笑)

などなど…列挙したらまだまだたくさんあると思う。

自分の頭の中では注意深く必死に努力していてもできない。それで周囲との確執が広がるのが正直辛かった。

ひょっとしたらこの病気の最大の特徴は周囲の理解が得られないことかもしれない。

当事者としてはすごく努力していたとしても身体障害者のようにどこか身体的な障害であれば周囲も理解しやすい面はあると思うが、精神的な障害ではなかなか「普通の人」と見分けがつかず、「ただの努力不足」「怠けているだけ」などと冷たい目線で見られがちだと思う。

そんな環境で生きていくと段々自分に対して自信がなくなっていき鬱になったり、私のようにSAD(社会不安障害)のような二次症状も起こしかねない。

大切なことは2つあると思っていて1つ目は自分を知ること。もう1つは環境を変えることだと思う。

自分の特徴を知っていれば自分に対して客観的になれると思うし、冷静に物事に対して対処できると思う。だけど、そのことに対して理解のない環境であれば自分を理解できていたとしてもなかなか難しい面がある。

だからこそ今の現状に問題があるのであれば環境を変える行動力が必要になってくる。

学校に行きたくないのであれば別の学校を探す行動力が必要だし、障害に対して理解のある会社があればその会社を調べたりするバイタリティは大切になる。

だけど、別に1人で全てやらなくてもいい。

親に相談したり、会社の上司や友達、ハローワークだってある。最近はSNSで同じ障害を持った人とつながることが出来るし、メディアが発達障害について取り上げてくれている。

社会は「終生の敵」であり「終生の味方」だ。

私は社会に対して少しでも発達障害が広く認識されればいいと思っている。

人と違うことがそんなにおかしいですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

ADHD、SADと診断されて思ったこと。過去の自分と振り返って

空気が読めない、落ち着きがない、集中力がない又は集中力がありすぎて周りが見えなくなる。今までの生きてきた中で「そうゆう人いるよね。」程度に思ってきたけど、先月精神科に診てもらったら、私自身がADHD(注意欠陥・多動性障害)とSAD(社会性不安障害)と呼ばれる発達障害だと診断されてしまった。(まぁ、なんとなく他の人とは違うとは思ってはいたけどまさか…)

24歳の私はもう社会人として生きなきゃいけないわけだし、正直「学生時代に知りたかったよ!」と常々思う。

確かに、子供の頃からこだわりが強い、集中力がない、記憶力が悪い、コミュニケーション能力がないなど散々な言われようをされてきた。

だけど、それは本人の性格ではなく、脳の神経がうまく伝達できずに相手とのコミュニケーションが円滑いかなかったり、記憶力が著しく低下してしまうらしい。

つまり「普通の人の脳の特徴」と「私達、発達障害者の脳の特徴」は違うということだ。

昔から大人達からは努力が足りないという根性論を何度も聞かされて教育されてきたが、今思うと「腹が立つ」というか「仕方ないじゃん!」と思ってしまうわけで…

だけど、現実問題、日本社会は普通の子を普通に教育したいから私みたいな異端児は弾かれるのが必然だ。

家族には心配をかけたくなかったから怠け者を演じてみたり、ダメ人間を演じたりしてしのいでいた。それが私にとっての生きづらさを生み、いつしか人と関わることを拒絶するようになっていった。

中学、高校の周囲からのイメージはおそらく「おとなしい子」や「不思議な子」だったと思う。だけど、そうしないと対人関係でひんしゅくをかってしまい、他の人に迷惑をかけるリスクがあるから仕方がなかった。

こう過去を振り返るとADHDもSADも自分が昔から持っていたものであり、最近突発的に起こった病気でないことがわかる。私が学生時代だった頃はADHDのメディア露出もそんなになかったし、皆理解がないから周囲の目はとても冷たかった。

最近は発達障害を抱える芸能人が番組で紹介したりしているので認知度は広がりを見せている。

私は発達障害と診断されて、少しほっとした。なぜなら、自分の特徴を理解し、その個性を受け入れられる知識があるからだ。

仕事においてもプライベートにおいても自分の傾向をしり、適切な職場や対人関係を築くことができれば障害は克服されていくと思う。今は少しずつだが、通院し、薬を飲んだり、リハビリをしている。

自分の特性を理解し、前に進んでいきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せになりたいとか別にどうでもいい

普通に生きたい。

幸せになるためにこの国の人達は当たり前のように残業し、婚活し、子供を教育する。その幻想的な幸せ像が虚像のように感じてしまう。

別に自分がそんなことをしたくものないのに世間はそれを求めてくる。

別に幸せになりたいわけじゃない、普通に生きたいだけなのに。

日本は残業大国だ。

残業が当たり前になっている。

朝早く起きて、満員電車に揺られ、夜遅くまで会社にいる。そんな働き方が当たり前になっているし、それを普通だとする社会の圧力は根強くあると思う。

会社の人間関係は儒教的な思想が基盤になっており、感情的に会社は回っていく。

そんな日本の会社は多いのではないか?

そんな組織の中で生きている人間が幸せか?日本人は自分の仕事に価値を見出して生きているというけど、私は違う。そんな社会との価値観のズレに疑問を感じてしまう。

健康で文化的な生活が保障されている国なら過労死だってうつ病で悩む人間が大量にいないだろうに。

日本の典型的な幸せ像にはときどきがっかりするし、うんざりする。

なんで皆がやっているからって自分もやらないといけないの?と毎日思う。

皆同じにしなければいけないという同調圧力が多くの人を苦しめているのに多様化しない現実。

飲み屋では本音が飛び交っていると思えば、飲み屋ですら空気を読み意見を交わさないサラリーマン。

どこで自分という個性をこの人達は出すんだろう?と思う。

別に普通の生活さえできればいいというかそんな豪邸に住みたいというわけでもないし、高級なレストランに行きたいとも思わないし、毎日朝起きた時に体や心が痛くない、三食当たり前に食べられる、時間がゆっくりと流れる。

そんな生活さえできていればいいと思うんだけどなぁ~

都会で生活すると家賃が高かったり、何にもしてなくてもいつの間にか搾取されている。毎日生活するために働いて負けないように振舞わなければいけない。

そもそも生活するために生存競争を酷使しれていること自体がおかしい。

生き残ることが自分の体や精神を犠牲にすることなのならなんのために生きてるんだろう?と思う。

別に自分一人だけ生きていても意味がないし、自分一人が生き残っても虚しいだけだ。

自分ができる範囲で毎日頑張っていればそれでいいし、それで生きていけないのであれば別にその人の責任じゃないし、国や社会が悪いわけで…

悩んだり、苦しんでいる人は自分を責めないでほしい。

何でもかんでも自分が悪いわけじゃない。

社会の方が悪いことだってたくさんあるから。

 

人は信用ならん

人は信用ならん。

親や先生は信用できない。

親や先生は偽善を吐くくせにその偽善が偽善であることを子供に教えない。

そうやって偽善の世界の中ですくすくと育った子供がいざ理不尽な社会に飛び込んだ時、どうゆう悲劇が起こるのかまるで理解していない。理解しようともしない。

ただ子供が無事に学校を卒業したり、普通に成人さえしてくれればいいと思っている。

その後のことをまるで考えていない。

親や先生は子供なんて見ていないのだ。先生は子供ではなく親を見ている。

親は子供ではなく世間体を気にしている。だからおかしくなる。

先生や親はよく口にする。

「他人が嫌がることはしてはいけません。」

この発言は欺瞞だ。

他人が嫌だと思うことを人は当たり前のようにやっているじゃないか。

先生や親だってたくさん無意識のうちに人を傷つけているのにね。

あんな発言をするような人達を私は信用できない。

社会も信用できない。

社会は当たり前のように嘘をつく。

会社、同僚、嘘で纏められた求人広告

ありとあらゆるものが嘘っぱちだ。

例えば、会社。

社会の中でも「会社」と呼ばれるコミュニティは嘘で舗装された空間に他ならない。

嘘も方便というがあらゆる体を体で重ね合わせるから「本物」がもはやなんなのかわからなくなる。

色んなものがわからなくなると人もわからなくなるものだ。

「他者」という存在はあるのだが、「自分」という個の部分がない…そんな感覚に見舞われ恐怖すら感じるようになる。

会社で働くとストレスであらゆる感性がなくなる。

感性がなくなると自分を失う。そして鬱になる…

会社とはそうゆうものだ。

段々、人から会社の論理で構築された機械へと変遷する。

その歯車になれなかった人は別の所の歯車になるために旅に出る。

旅に出た社会人は歯車になるために「役者」を演じる。

ほとんどの社会人は「サラリーマン役者」だ。

大根役者もいれば名優もいるだろう。

いつもニヤニヤ笑顔を演じている社会人Aさん、いつもイジラレキャラを演じてる社会人Bさん。色んなタイプの役者さん方がいらっしゃることは容易に想像がつく。

そうやって嘘で武装された人々が大量生産される。

そんな人々を信じることができるかと言われれば、私は信用できない。

まぁ、社会人になって友達ができない理由は上記に述べたことが原因で、利害関係ばかりが優先されて、「お互いを信用できない」ことが所以なのかもしれない。

子供の頃には大人への不信感が、大人なるとそれが社会への不信感に変わる。

だけど、本質は変わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いじめの「敵」に負けてもいいんだよ

いじめることを他の人に言うというのはとても難しいよね。

大人達は当たり前のように「友達や親に相談して」みたいなことを言うが、そんな簡単なことじゃない。

子供は大人が思っている以上に子供っぽくないよ。

親には心配かけたくないと思うし、友達にもなかなか相談することはできないと思う。

だから、自分一人で考えこんでしまってとても不安になると思う。

孤独…孤独…孤独…

もし、学校に行きたくないなら行かなくていい。

親にもいいたくなければ言わなくていい。

いじめられるより何倍もましだと思う。

時間をかけて自分を見つめて歩んでいけばいい。

もし、少しだけ前に進んでもいいのなら他の人に話すといい。

そこで問題になるのは、子供には子供の正義感、倫理観、子供達で築き上げた秩序が存在しているということだ。

例えば、いじめを先生や親に訴えると、子供達の世界では「裏切り」になってしまう。

理屈ではない。子供達の理不尽な世界…

大人達にとっては幼稚な世界でも、子供達にとってはとても真剣な弱肉強食な世界。

いじめられている本人もその秩序から外れたくないからいじめを申告できない…そんな子供は多いんじゃないかな~。

先生や親も上記で述べた秩序を理解できていればいいんだけど、大人達は子供の頃をすっかり忘れてしまっているから大人達の常識で子供に「いじめられたらすぐにいいよ!」みたいに言ってしまう。

大人の常識と子供の常識は乖離しているのにね。

まぁ、先生や親が信頼できないなら、ネットの相談や相談ダイヤルを利用して全く関係性のない人間に相談してみるといい。

関わりのない人間の方が気楽に話せるし、学校の人間や親の噂話になるのも最小限に抑えられると思う。

自分がいる世界には「敵」しかいなくても、まだ自分が知らない外の世界には「たくさんの味方」がいるよ。

味方は同年代の人かもしれないし、自分よりも年上の大人達かもしれない。

自分と同じ境遇の人にも出会えるかもしれない。

外の世界にはたくさんの救いがあふれている。

だから、死んではだめだと思う。

今日が辛くても、明日はまだ見たことない新しい世界に行けるから。

今辛くても、年を取るにつれてたくさんの出会いや選択肢が増えるから。

現状よりも必ずよくなる。

悪い環境からは逃げて逃げて逃げまくればいい。

最期に笑って過去ことを笑い飛ばせばいい。

何もかもが変わる時が必ずくるから、最後まであきらめずに生きたほうが幸せになれると思うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

少しも成長していない

人間成長するとはいうけど、私は少しも成長していない。

皆が当たり前に進んでいくのをただ後方から見てるだけ…

大人になれば色んなことが当たり前にできると思ってた。

だけど、少しも成長しない。

子供の頃見た大人はあんなに立派そうだったのに…

いざ自分がなってみると自分の幼稚さや人生経験の浅さに失望する。

小学校、中学、高校、大学、社会人と上がり、年齢も上げるんだけど、精神的には子供のまま…社会人を演じて生きている。

社会人はとにかく苦しい。

社会人と規定されているから規定された社会人を役者の如く演じなければいけない。

そうして演じていくうちに、「自分が何者なのか?」わからなくなる。

そのうち何を食べても味はしなくなり、息を吸うのも苦しくなる。

私は東京に住んでいるのだが、都会はとにかく息苦しい。

「都会」という怪物に「食いつぶされる」ような錯覚に陥る。

大学卒業後、毎日朝早く起きて、満員電車に揺られて会社に行く。

そんな当たり前な日常が苦痛で仕方がなかった。

毎日毎日、同じことの繰り返し、何かを得られるわけもなくただ時間だけが過ぎていく。時間を代償に得たお金を貰っても全然嬉しくない。

社会人の初任給は嬉しいものだと教えられてきたが、私はちっとも嬉しさはなかった。

ただ、息をしているだけで生きていない。死んでいるのと同じ…

死んだほうがいいのでは?と考えてしまうほど苦しかった。

自分の大切なものを奪われる前に何とかしなければと思い、ぎりぎりの精神状態の中私は会社を辞めた…

どれだけ生きればいいのか?この世は生き地獄じゃないかと毎日思う。

大人達は成長することは素晴らしいことだと常識のようにおっしゃるが、私はあなたがたとは違う。あなたがたは成長できる強い生き物かもしれないが、私は違う。

世の中は弱肉強食だから、いつも弱い者は虐げられる。

いつの時代であれ人間の本質は変わらない。

成長することが大衆迎合だというのならなぜ気持ち悪い世界と共存しないといけないのかわからない。

上記で述べた自分の感覚を他人に伝えても理解されないことが多い。理解されたいとも思わない。

だけど…他の人の考えは理解したい。理解できないのは悲しいことだから。

もし、他の人を理解できたら、自分を理解することにもつながる気がしている。

自分自身、自分が「何者」なのかわからないけど、少しは理解したい。

頭の中で考えた思考回路より自分や他者が感じた直観的で感覚的なものを信じれるようになったら人生豊かになれるのかもしれない。